時代を超えて私たちの胸を打つ名言 

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 1、煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ  2、人を毒する「三つの煩悩」とは

瞑想修行を邪魔する5つの煩悩、五蓋の内容は、以下の通り。

  • 貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
  • 瞋恚(しんに) - 悪意・憎しみ
  • 惛沈睡眠(こんちんすいみん) - 倦怠・眠気
  • 掉挙悪作(じょうこおさ) - 心の浮動・後悔
  • 疑(ぎ) - 疑い

◆「四苦八苦」の本当の意味とは

仏教は心の病院である

仏教は病院ですから、病気で苦しんでいるいる人を直すのが仕事です。病気でない人は全く必要でありません。

ですから病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院をさせるようなことはしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理やり信者に引っ張り込もうとはしません。

病院の目的は、患者を増やして勢力を拡大することではなく、困ってやって来た人をしっかり受け入れ、その病気をしっかり治癒することにあります。キリスト教は、「イエスの教えを全人類に広めよ」、ということが最初からのミッション。

キリストは救世主として現れたが、ブッダは自分の苦しみを解決するために修業を始めたのであり、人助けをしようなどとは考えてはいませんでした。

菩提樹の下で悟りを開いた時点でも、自分が悟ったことを喜び、それだけで自己満足していました。ところが伝説によると、このとき梵天が現れ『あなたが悟った体験を皆に説いて下されば、多くの人が救われます、どうぞ布教してください』と頼まれ、伝道を決意したといいます。

ブッダが教える修業とは苦行ではなく精神を集中して瞑想。

2016年6月27日 地位や名誉や財産人生の充足は得られない。

修業とは精神の集中の為に瞑想し、襲い来る煩悩の悪魔(欲望 妄執 睡魔 恐怖)との戦い。

2016,06.15 まぬけな人 忙しいから間がなく、間が抜ける。松原泰道

忙の漢字を縦に書くと忘れるになる。

忙の解字

形音文字。心+亡。音符の亡は、無くなるの意味。心の中から記憶が無くなる、わすれるの意味。

形音文字。立心編(心)。音符の亡は、ないの意味。落ち着いた心がない。いそがしいの意味を表す。

詩人の谷川俊太郎さんの詩「急ぐ」

こんなに急いでいいのだろうか

田植えする人々の上を

時速2百キロで通りすぎ

私には彼らの手が見えない

心を思いやる暇がない

この速度は早すぎて間が抜けている

苦しみも怒りも不公平も絶望も

すべて流れてゆく風景

こんなに急いでいいのだろうか

私の体は速達小包

私の心は消印された切手

しかもなお間にあわない

急いでも急いでも間にあわない

1960年代、開業して間もない東海道新幹線に乗った詩人の観察と感想である。

松原泰道の名言集

「無精をしない」は、面倒くさがらずにやることではなく、精を出すこと、齢をとっても何かを学ぼうとすること、自分のことはできるだけ自分ですることだ

「無駄をしない」は、浪費をしないという消極的な意味だけでなく、積極的に時間も物も活かして使うこと

「無理をしない」は、危険なことや差し出がましいことをしないという意味ではなく、「道理」にはずれたことをしないということ

三つのことを“心の杖ことば”にしている。「無理をしない、無駄をしない、無精をしない」の“三無”である

多くの縁に支えられて生きている、生かされている「いのち」だからこそ、日々の暮らしで「人に知られないように、人として作すべきことをなす」という“陰徳”を積むことが何よりも健康につながる

自分一人の力で健康や長寿が保てるものではないことを痛感している

この齢になってますます頭が冴えてきましてね。記憶力が悪くなった分、頭の回転が良くなりましたよ

(吉川英治が「自分以外は皆我が師」と言ったことについて)私はこの言葉を受けてさらにこう申したいのです。“自分もまた我が師である”と

「保福」・・・いまの幸せは、いろいろな方や先達からいただいた、というより預かっている預かり物。だから、いまは自分のもとに保留しておいて、しかしやがてそれはまた他の人にお預けしていく、そのためにいまの福を使い減らさないように

「点灯福」・・・心に灯をともせること、これはまた幸福である。どんなときでも心に灯をともすことが大事

「逆縁福」・・・うまくいく縁に恵まれることを“順縁”という一方で、物事が裏目裏目に進んでしまうのもまた縁、“逆縁”という。この、逆境のときにこそマイナスをプラスに変えていく努力をできるチャンスで、それを人さまにおすそ分けしていく

「知足福」・・・足るを知る心を養うこと

人の心に光を灯す説法をしたい。そのために生きている間は学び続けたい

(七福とは)惜福、分福、植福、知足福、逆縁福、点灯福、保福

すべてのものは移りゆくから精進しなければいけない

仏さまを拝む心と鏡を見る心は深いところでつながっているように思えます。顔が汚れているとか、髪が伸びているなどの外見の乱れは、鏡に見ていただくことで整えることができます。そして、鏡に映っている自分の姿の中に仏性を見出すことが、自分の心を整えることになるのです

一人で考えることと、考えた中身を相手に伝えるということは違います。どんなに素晴らしいことを考えていても、誰かに伝えない限り、それは幻想にすぎません

私は後期高齢者を通り過ぎて、末期高齢者。今や秒読みの段階。消えてしまう前にさっそく本論に入ります

習うより慣れよ、慣れたらもう一度学べ

生涯修行、臨終停年

人生、還暦からが本当の自分の人生だ

看脚下(脚下を看よ)

薬師寺の管主をされていた高田好胤さんが、出版社から般若心経についての本を書かないか打診されたとき、『東に松原泰道という面白い男がいるから、彼に頼んでみなさい』と推薦して下さって、それで私は、60歳を過ぎてから、高田好胤さんのお陰で世に出ることができたのです

どのような人でも、その人の心の奥底に、その人を人間に目覚めさせる大きないのちが確実に具えられている。ただこの事実に気づかないのにすぎない。何かの縁に会うならその人は自分の持つ尊いいのちにめざめるであろう

「君子ハ和シテ同ゼズ、小人ハ同ジテ和セズ」−この区別が大切です。個性を生かしながら和し、和してベタベタにならぬ一境が大切です

子ども叱るな、来た道じゃ。年寄り叱るな、行く道じゃ

悲しかったら鏡をごらんなさい。苦しかったら手を合わせなさい

言葉は心の足音である

人は生まれたから死ぬんですよ

花が咲いている。精いっぱい咲いている。わたしたちもせいいっぱい生きよう

松原泰道(まつばら たいどう)
生誕:1907年11月23日
出身:東京都
死去:2009年7月29日
臨済宗の僧侶。東京都港区の龍源寺住職

 

苦しみから逃れるためには、諸行無常を前提として生活設計をしていけ

私たちは自分以外のものが諸行無常であるということは、なんとなく想像できます。しかし、この自分という存在だけは、少なくとも自分が生きている間は存続していると思っている。

しかし、それはおそらく脳の記憶物質か何かがもたらす錯覚で、本当は自分自身さえも一瞬ごとに別のものに変わっているというのが仏教の考え方です(仏教では人間を「いろいろな要素が集まった集合体」と考えます)。

自分ですら変わるのに、ましてや自分以外の息子や財産などが永続するはずがない。だから執着するなということです。

 

色即是空、空即是色 

この世にあるすべてのものは因と縁によって存在しているだけで、その本質は空であるということ。
また、その空がそのままこの世に存在するすべてのものの姿であるということ。

『般若心経』の冒頭には「観自在菩 行深般若波羅蜜多時 照見五薀皆空度一切苦厄」とあるが、これは「一切の苦と厄を度す」と解釈され、人々を苦しみや災厄から救済する目的があり、一切は「空」だということを悟れば、永遠につづく苦しみというのは存在しないことが理解でき、人間はすべての苦しみから救われると説いていると解釈される。
また『般若心経』の最後には、「羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 婆訶」と書かれているが、
これは、この文句を唱えさえすれば理屈が理解できなくても、一切の苦しみから救われると解釈される[]
【コラム】色即是空・空即是色とは、小学生にでも分かるやさしい内容

仏教語に「色即是空・空即是色」という難しい言葉がありますが、その意味は小学生にも分かるやさしい内容なのです。

どんな物にも色が着いていますから見えます。でも空気は色が着いていないので見えません。だからお釈迦様は、見える物を「色」と呼び、見えないものを「空」と呼んだのです。でも、見える物と見えないものは同じものなのです。なぜなら、見える物は見えないものでできているからです。しかしそうはいっても、なかなか一般人に理解してもうことができない、そこでお釈迦様は分かりやすい色の着いた物を「色」と表現し、無色透明なものを「空」と表現したわけです。お釈迦様は、実にうまい表現をされたものと思います。

さて形ある見える物の背後には、必ず形作っている本質があります。その本質は見えないのです。その見えない本質のことを、現代人は原子と呼び、お釈迦様は空と呼んだわけです。

原子は見えません。その見えない原子が、見えるすべての物を生み出しているのです。だから、人間も万象万物も空です。原子です。原子が分子化し、様々な形に化身したのです。すなわち、「空」が様々な「色」に化身したのです。その空も原子も生命の別名ですから、この表現の世界は物質の世界であると同時に、生命の世界(空の世界)でもあるのです。その生命が様々な色を着け形を取って、表現の世界に出てきたのです。色も形も様々ですが、その中身はみな同じ生命なのです。だから人間も万象万物も生命です。

その生命は、この宇宙にたった一つしかありません。ということは、あなたは私ではありませんか?。万象万物は私ではありませんか?。だからお釈迦様は、「他人を自分の如く愛しなさい!、すべての物を自分の如く愛しなさい!」といわれたのです。一つしか無いということは、私しかい無いということですから、私が他人を愛し、私が万象万物を愛するのは当然ではありませんか?

さあ今日から、何を見ても、何を聞いても、何を味わっても、何を嗅いでも、何を触っても、私と思って下さい。

愛を育むコツは、「色即是空・空即是色」を正しく理解することです。すべての物は、「空生命から生まれた兄弟姉妹なのですよ!」ということを理解することです。

もうひとつ、お釈迦様は「この世は無常の世界である」ともいっておられます。無常の世界とは、常ならぬ世界、変化する世界、すなわち幻の世界という意味です。形ある物は、みな消えて無くなってしまうからです。「色褪せる」という言葉がありますが、「色」つまり「物質」は「褪せ」てしまうものなのですよ!、無常なるものなのですよ!、消えて無くなるものなのですよ!、といっているわけです。だから「色」は、つまり物質は、実在するものではないのです。

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